ルネサンス期のイタリアでは、傭兵による戦争がメインとなっていた。
その理由の一つは、イタリア全体をまとめる勢力がなくなり多くの都市国家によって運営されたところにある。
ドイツ皇帝の影響力が薄れ、法皇が俗権を振る始める内に、都市ごとに自治を治める国家が登場して、ローマはイタリアの一部の領国となり、多くの都市国家が登場した。15世紀初めから中ごろにかけてフィレンツェ・ヴェネツィア・ミラノ・ナポリ・法皇国の5つが主な勢力となり始めたのだ。
そうなると国家の規模がフランス・スペイン・イギリスなどに比べて小さくなるため、自国民だけで軍隊を組織することに限界がでてきたからだ。
■①商業の発展と傭兵が根付いた理由■
主な勢力となってきた都市国家は、商業の成功によって力を付けてきた背景があるため、自国民の多くが軍隊に参加してしまうと都市の商業が上手く機能しなくなってしまう。
また、商業の発展により中産階級が力をつけ、都市内での貴族の内部分裂のくり返しと中産階級との結託により自治が成り立ってきた面があり、都市国家内部で軍事力が高まってしまうと、新たに都市内部に勢力ができてしまい争いになってしまう面もあった。
更に、戦争に使う装備などの軍事技術が発達し、普段戦争をしていない民衆が短い期間訓練した程度では太刀打ちできないくらいのレベルまで上がってしまった。そのため、戦争に勝つためには、商業で稼いだお金で傭兵を雇うのが一番手っ取り早い方法となっていたからだ。
こうしてルネサンス期のイタリアはヨーロッパの周りに比べて異質な、職業としての「傭兵隊長」が根付き戦争が行われていた。
これに対してマキャベリは、このようにお金で雇い、国の為に命をかける気概のない「傭兵」による馴れ合いの戦争となってしまい、外国勢力の侵入に対応できない軍事力になってしまったと嘆く。
■②古き良き傭兵時代■
しかし、逆を言うと外国勢力がイタリアに侵入してくる15世紀後半までは傭兵による誇り高き戦争が行われていた。
その中でも最も尊敬を受けていたのが、ウルビーノ公でもある傭兵隊長のフェデリコ・モンテフェルトロである。彼は負けない戦争を行い、周りから尊敬されるような徳の高い戦闘を繰り広げ、晩期には「最も有力な君主の一人フランチェスコ・スフォルツァとの提携を確保し、次でミラノ、ヴェネツィア、フレンツェ、法皇ら、この時代の最大の勢力との「契約」を獲得した」(下村寅太郎『ルネサンス的人間像』より)。
なぜウルビーノ公が傭兵隊長になったのかと言うと、この時代は5つの主な勢力以外は傭兵隊長などになり主な勢力に連携して存続を保たなければならなかったからだ。
モンテフェルトロも傭兵隊長となり、主な勢力と上手くやり取りしたのだ。更に、モンテフェルトロはその傭兵で稼いだお金を自らの領国民のために使い、絶大な支持を得た政治を行っていたという。
■③ウルビーノの文化■
また、自ら統治者としての威光を強くするために、学問や芸術を盛んにするのが当時の都市国家の流れでもあった。モンテフェルトロは特に学問や芸術に精通していてウルビーノはモンテフェルトロの時代にもっともルネサンスで輝かしい文化水準の都市国家となったほどだ。
モンテフェルトロは特に「建築学」に興味を持っていて、ウルビーノにある「ドゥカーレ宮殿」はルネサンスの名建築の一つに数えられる。今までの都市国家統治者は城塞を作る傾向にあったようだが、モンテフェルトロが城塞の形態を持たない宮殿を建てた初期の人でもあった。そのため、「ドゥカーレ宮殿」は建物を囲う塀や庭・建築様式などを持っていない。
その「ドゥカーレ宮殿」でもっとも注目すべきはモンテフェルトロが集めた蔵書をベースとした図書館である。当時のヨーロッパで一番のラインナップを持っていると称されたほどのものである。後に複式簿記の普及で有名になるルカ・パチョーリも名著「スムマ」を書くときにはウルビーノの図書館に通っている。
■④フェデリコ・モンテフェルトロの経歴■
因みにフェデリコ・モンテフェルトロは1422年にウルビーノの公の庶子として生まれる。
1420年代にから始まったロンバルディア戦争(Wars in Lombardy)の第三部としてヴェネツィアがかつてミラノに勝利したのにも関わらず、1432年に負けてしまった戦争にある。その戦争においてモンテフェルトロの父も戦闘における敗北をしており、改めてヴェネツィアと傭兵契約を結ぶためには息子のモンテフェルトロを人質に出さなくてはならなくなる(1433年)。
ただ、このヴェネツィアでの生活がモンテフェルトロの教養を付けるキッカケとなる。総督のフォスカリはモンテフェルトロの未来の活躍を予言し、フェルトレの学校で非常に広範囲の教養を得る。また、直接なかかわりはないがコジモ・デ・メディチもこの時期にフィレンツェから追放されヴェネツィアに亡命している。
1438年には、ミラノの傭兵として活躍していた歴戦の傭兵隊長ニッコロ・ピッチニーノ(ダ・ヴェンチの『アンギアーリ戦い』に描かれている人)の元で軍事を学ぶ。ヴェネツィアにの総司令官を罷免されたゴンサーガと共にヴェネツィアに大勝した戦争の一つのブレシア包囲などに参加している。
1439年には、自国が隣の国の傭兵隊長ジギスモンドに侵略されかけて父が窮地に陥っていたため、帰郷して、戦闘に参加し危機を救う。
1442年には父が死に、息子の一人のオッドアントが政治を行うが、悪政だったため1444年には市民に刺殺され、モンテフェルトロがウルビーノ公を継ぐ。
1450年にはかつてから交流のあったスフォルツアのミラノ公昇格の祝賀馬上槍仕合に参加するも右眼と鼻を負傷。
1467年、モリネラでの戦闘。マキャベリは後に死者の出ない傭兵同士の出来レースの典型として紹介する戦闘が、実際は誇り高き傭兵の騎士道に基づいた激しい戦争を繰り広げる。
1483年ヴェネツィアとシクストゥス4世に対抗した、フィレンツェ・ナポリ・ミラノ・マントヴァの連合軍の総指揮となり、出陣時はロレンツォ・デ・メディチがわざわざ出迎える。しかし、マラリアが蔓延し、モンテフェルトロは部下を見放せず自身もかかり病死。